Eddie Jobson
〜TULLにはフィットしなかった名手〜

Eddie Jobson


エディ・ジョブソン / Eddie Jobson (1955〜 /在1980〜81/キーボード、エレクトリック・ヴァイオリン、マンドリン)

日本ではマイナー街道まっしぐらのJETHRO TULL。その原因の一つに、数多い歴代メンバーのなかに他バンドやソロで活躍した人物が驚くほど少ない、という点が挙げられよう。そんななか、Tony Iommiとともに例外な存在なのが、このプログレ界の貴公子ことEddie Jobsonである。

Edwin Jobson / エドウィン・ジョブソンは1955年、イングランドに産まれた。プログレ全盛期を生きたミュージシャンのなかでも一回り下の世代である。元々クラシックを志していたが、ロックに転向、1971年にDarryl Way(ダリル・ウェイ)とFrancis Monkman(フランシス・モンクマン)の後釜としてCURVED AIRに加入するところから彼のキャリアは始まる。そしてBrian Eno(ブライアン・イーノ)の後任としてROXY MUSICに加入。彼のバンド遍歴は、海外ではこのROXY MUSIC時代が一番有名なようだ。このへんはJETHRO TULLとは関係ないのでバッサリ省かせていただく。主なバンド遍歴だけ挙げておくと、ROXY MUSIC解散後はFRANK ZAPPAを経て、1978年にスーパーバンド、U.K.を結成する。

JETHRO TULLは、「STORMWATCH」U.S.ツアーのサポートアクトとしてU.K.を起用、ここで両バンドの間に交流がもたれたようだ。Ian Andersonは、ツアーの後、ソロアルバムの制作に着手、TULLからはMartin BarreとDave Peggを呼ぶが、キーボーディストにはJohn EvanでもDavid Palmerでもなく、Eddie Jobsonを指名する。このあたりの事情は他稿にも書いているが、80年代的な音楽を志向するAndersonにとって、EvanやPalmerは、厳しい言い方をすればもはや用済みであり、シンセサイザーに通暁するJobsonの方がずっと適任だったのだろう。さらにJobsonはヴァイオリニストでもあり、いざとなればフォーク色の強い楽曲にも対応できそうだった。
いざとなれば -- ソロバンドはそのまま新生JETHRO TULLとなったのである。

結局JETHRO TULLのアルバムとしてリリースされた「A」は、全体として中途半端な作品で、楽曲のばらつきが激しい。アルバムは事実上、AndersonとJobsonの共同アルバムといえるほどJobsonの貢献度が高く、作曲クレジットはすべてAndersonに帰せられてはいるが、Jobsonの発言量の多さからか、"Additional musical material Eddie Jobson"とクレジットされている。
ROXY MUSIC在籍中やBryan Ferry(ブライアン・フェリー)のバックを務めていたときとは違い、すでに名声を確立し、自分のセンスや才能に対する十二分な自信のあったJobsonは、Andersonに対してそれほど遠慮することなく自らの色を楽曲やアレンジに投影したのではないだろうか。また、それが出来るほどAndersonは寛容だったのだろう。おそらく寛容でなくてはならないほど、テクノロジーに傾斜していく80年代初頭の音楽シーンに対して、Andersonは自信がなかったのだ。

バンドはこのメンバーでワールドツアーを敢行する。リリースされた「A」はセールス的にはあまり振るわず、ツアーの評判も悪く動員数も減少してしまう。
特に旧来のファンからのJobsonに対する反発は激しかった。優れたエンターテイナーでもあったJohn Evanの後任としては、Jobsonは青二才にみえたようだ。また、線の細い当時のシンセサイザーでは、アナログハモンドやオーケストラを多用したTULLの音楽をライヴで再現するのは難しかったのだろう。日本では考えられないが、ヒストリー本の中には冷徹に「力量不足」と書いてあるものもある。
ライヴの模様はDVD「SLIPSTREAM」(紙ジャケリマスター「A」に同梱)で見ることができる。Andersonに張り合って、片足上げてヴァイオリンを引き倒すEddie Jobson・・・

ではその他のJobsonのエピソードを少々。
Eddie Jobsonは"Jobbo/ジョボ"というあだ名を気に入っていない。
同様に本名の"Edwin/エドウィン"で呼ばれるのも気に入ってない。Ian Andersonのみが、この名で呼ぶことを許されている。
ライヴではマンドリンも弾いていた。

ツアーが終了すると、Jobsonはソロアルバム「THE GREEN ALBUM」を制作するためバンドを離れる。わずか一年の在籍であった。そしてこのアルバムが振るわなかったJobsonは、アメリカでテレビ音楽などを手がけるようになり、表舞台からは退くこととなる。
ところが1985年、JETHRO TULLは、西ドイツのテレビ番組が企画したJ.S.Bach(バッハ)生誕200周年コンサートに招かれることとなった。当時のキーボーディストはPeter John-Vettese(ピーター・ヴェテッシ)だったはずだが、おそらく番組の趣旨を反映してであろう、ヴァイオリンが弾けるJobsonがわざわざ呼ばれた。このライヴはブートで出回っているので有名だが、ヴァイオリニスト&ピアニストとして縦横無尽に活躍している彼の姿が拝める。マニアは要チェックだろう。特にJ.S.バッハの"2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調"の第1楽章のカバーは素晴らしい出来で、80年代TULLの最高傑作の一つである。クラシック畑の人から見れば決して上手いヴァイオリニストではないようだが、ロック界でここまで出来るのは稀有だろう。ちなみにこのライヴではどさくさにまぎれて(?)「THE GREEN ALBUM」のフレーズも弾いていた。
1990年にも、ニュージャージーで行われたJETHRO TULLのコンサートにゲスト参加し、ヴァイオリンを弾いたそうだ。


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